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まとめて書く用

日々を記す

2010年7月も中旬に差し掛かった。10月には齢33を数える。台湾ではちょっと歩くだけで汗が染みるような熱気が続いている。早くから老成した己の精神は、特に震えるでもなく嘆くでもなく、あるがままを受け入れ、ちょっとした虚栄心と心の平静を乱すような事柄と淡々と戦いながら、今日1日は昨日亡くなった誰かが渇望した1日と知りながらも、無難に過ぎていく。

正直なところ、楽なのだと思う。それを知ってなお、楽をしているのだと思う。

東京でサラリーマンをしているときのように数字に追われながら会社の体制と戦うでもなく、大勢の色んな人に囲まれるでもなく。東京の2年は本当に長かったが、台湾の2年はあっという間だった。そしてふと、「これでいいのだろうか?」という疑問がその顎門を晒しながら鎌首をもたげて来る。

現状肯定能力とでも言うのだろうか。これが実に厄介だ。多くの場合は慣れから始まるその疑問は人の一生を左右し得る。親、兄弟、嫁、子供という誰かの為という名目なら、やや容易に我慢できる気がするが、オレはせいぜい親を援助するくらいのスナフキン。自分の心が人生の羅針盤だ。

行きつけのバーで独りで飲んでいたら、一回り上の日本人の方と知り合った。台湾で店を持っていて、奥さんは日本で働いていて別居中。一緒に住めるの60歳くらいかも知れないと笑いながら仰っていた。なるほど、そういう人生もあるのかとまた1つ勉強になった。嫁を娶り、子供を作って、家のローンを背負わなくても、別に構わないのか。いやそれともそれをこなした上で、そういう人生もあるのかも知れない。

最近、普通の人生に憧れる。その普通はネットではハードル高すぎとよく比喩される。オレもそう思う。

でもきっと耐えられないのだとも思う。

恐らくこれでいいのだろうか?と思えるくらいの環境が自分には合っているのだろう。穏やかに日々が流れる。結構なことじゃないか。

だがなぜか喉に小骨が刺さったような違和感が拭えない。その不安の種は、猜疑心を育て、またオレの額に皺を刻む。

If I could reach, higher!

2010年南アフリカWC決勝がこれから控えているのに、1996年アトランタ五輪の話で恐縮だが、グロリア・エスティファンのテーマソングにそんな一節がある。好きな歌で今でも記憶している。そしてたぶん今のオレに足りないのはそれなのだと思う。しかし今のオレにはそれが何なのか見えていない。

この現状で何に挑戦できるのだろう?とりあえず死ぬまで飲んでみようか?